息抜き

少し日が開いてしまいました(・_・;

 


この1週間、心と体と時間に余裕を持つことがいかに大切なのかを痛感しておりました。

 


誰にでも自分のペースがあります。

それに対して文句を言うつもりはないですが、自分のペースと他人のペースが違うことは理解しておかなければいけないと思います。

 


仕事は1人でしている訳ではありません。

1ヶ所詰まると玉突きが起こります。

それを頭に置いて優先順位をつける必要がある訳です。

 


当然といえば当然なのですが、大量の仕事を抱えていては整理もうまくできません。

 


自分の処理能力で対応できるかの見極めも大切。

無理なら無理と言うことも、仕事がスムーズにいく秘訣なのかもしれません。

 


と、そんな感じで沸々とストレスがいい感じに溜まっております笑

この連休は、実家でエネルギーチャージしてまいります(o^^o)

空を見上げる

先日は中秋の名月でしたね。

この日に満月が見られるのは、7年後だそうで・・・。

そのころはどんな日常を送っているのでしょうか。

 

先の見えない未来に震えていますが

お月様は明るく道を照らしてくれていたので、

とりあえずはこのまま進み続けたいと思います。

 

人は疲れたり傷ついたりすると、決まってうつむきます。

視線の先は灰色のアスファルトだけ。

ほんの少しでも顔が上がれば、道端の草花が見えるのに・・・。

 

私は、しんどい時こそ物理的に上を見上げます。

まさに「上を向いて歩こう」。

 

顔を上げると視界が広がり、見えていなかったことが目に映ります。

 

今日の空は高いなぁ

 

今日って満月だったのか

 

そろそろ秋の匂いがしてきたなぁ

 

家と職場までの道のり。

そんなことを考えながら過ごしていると、自然と思考もクリアになってきます。

その日のスケジュールをイメージしたり、朝礼で話したいことをまとめたり。

 

でも、あまり遠くばかり見ていると足下の石ころに躓くんです。

 

遠くを見たり、近くを見たり。

 

焦ったところで何も変わりませんから。

一歩ずつ、少しずつ、常に成長し続ける自分でありたいです。

アドバイス

私は声を荒げて注意することが苦手です。

 


というかできません。

 


だから、そういう場面に遭遇したときは静かに正論パンチを浴びせます。

それはそれはぐうの音も出ないほどに…。

 


子どもたちにとっては苦痛な時間でしょうが、

本当は注意されることってありがたいことだと思うのです。

 


見逃そうと思えばいくらでも見逃すことはできます。

注意するということは、それだけちゃんと見ているということ。

 


その行動を考え直してほしい。この失敗から成長してほしい。

 


そう思うからこそ大人は子どもに注意するのです。

 


残念ながら世間にはブラック校則や、自分の主張を理不尽に押し付ける大人もいます。

ただ大人から投げられた言葉が、自分のことを思っての言葉なのかどうか、

子どもたちは正しく判断する力を持っています。

 


逆にマズいことをしている自覚があるのに注意されないのは、ラッキーではありません。

見捨てられた、あるいはどうでもいいと思われていることとイコールです。

 


大人になると、誰かに注意されたり怒られたりすることが極端に減ります。

 


多くの場合、それは社会のルールやマナーを身につけた証拠でしょうし、

上手くコミュニケーションや連携をとって過ごせているからでしょう。

 


しかし、本当にそうなのか?と我が身を振り返る時間も必要なのだと思います。

 


もらった注意(貴重なアドバイス)は一旦受け取る。

それは、どんなに理不尽でも一応自分のための言葉ですから。

そして自分に必要ない部分は、そっと水に流せばいいのです。

 


ただ…

 


相手に悪意があるときは、徹底抗戦も選択肢の一つ…

 


ですね( ͡° ͜ʖ ͡°)

タイムマネジメント

時は金なり

 


アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンの言葉『Time is money』の日本語訳です。時間はお金と同様に貴重なものだから、決して無駄にしてはいけないという有名すぎる言葉です。

 


私たちが生物である以上「死」という終わりが付きまといます。

半永久的に流れる時間も、私たちにとっては有限のものになるわけです。

 


自分の寿命がいつ尽きるかなんて、誰にもわかりません。

だからこそ一分一秒を全力で後悔しないようにしなさい、という戒めが生まれたのでしょう。

 


しかし一分一秒を全力で生きるなんて、私にはちょっと厳しい。

 


もちろん、そうでありたい自分もいるわけですが

テレビを見る時間も、推しを追いかけている時間も、ぼーっとする時間も私には必要です。

時は金なりの言葉に当てはめるなら、何も生まない無駄な時間かもしれません。

それでも私という人間を保つためには欠かせない時間だったりするのです。

 


職業柄、子どもたちには時間を大切にという話をします。

確かに時間は有限だし、使い方次第でプラスにもマイナスにもなります。

三年間という限られた高校生活だから、やりたいことをやれるだけやってほしい。

勉強も、部活動も、友情も、恋愛も。

 


ぼーっとする時間も含めて自分という人間を作り上げてほしいのです。

 


今の子どもたちを見ていると、やるべきことが多過ぎて少しかわいそうに感じることがあります。

毎日何かの予定があっては心も体も休まらないでしょうし、そんな状態で勉強なんてとてもできません。

そもそも大人の社会が時間に追われていますから、子どもたちにゆとりを求めるのも難しいのかもしれません。

でも一杯のお茶を飲む時間に、大切な気づきやコミュニケーションも生まれます。

 


余白の時間

 


この時間を楽しめる人になっていきたいものです。

話す、伝える

誰かの自分語りを聞くのはちょっと疲れます。

それは、語る側が自らの満足感のために話しているから。

 


でも自分の経験を伝えることは大切です。

子どもたちにとって親以外の身近な大人である教師は、いつでも興味の対象です。 

 


プライベートを切り売りする必要はないと思いますが、

自身の経験を語ることで生徒に新たな気づきを与えることもできます。

 


ただ、すぐに言葉の意味を理解してくれるわけではありません。

投げかけた言葉が腑に落ちるのは、明日かもしれないし50年後かもしれない。

いつか彼らが成長したときに「そう言えば、こんなこと話してた先生がいたな」と

思い出してくれれば良いと常々思っています。

 


その時を共に過ごすことはきっとできませんし、私の名前なんて覚えていないかもしれません。

でも私が投げかけた言葉が彼らの思考を揺るがすなら、それで満足です。

 


だからこそ、行き当たりばったりで話すのは控えています。

伝えたい言葉は特に。

何度も推敲して、頭の中で反芻して、自分自身で納得できてから実際に言葉を紡ぎます。

 


そうやって話したことは、不思議と評判がいいものです。

 


「あの話、良かった!」

 


すれ違う生徒にそう声をかけられたとき、心の中ではガッツポーズ。

 


彼らの未来が豊かになるような、言葉の種まきをこれからも続けていきたいと思う今日この頃です。

見守る

秋分の日も過ぎ、すっかり秋の空になりました。

 

私が勤めている学校は、これから大きい行事の連続です。

学年が上がるほど自分たちでできることも増え、教師は見守る場面が多くなります。

 

基本的には子どもたちが考えて、やりたいようにさせますが、内輪ノリになってしまったり、無謀過ぎる計画には方向修正が必要です。

 

でも、この声かけが難しい。

口を出し過ぎると何も考えなくなるし、言わな過ぎても意図が通じない。

結局は様子を見ながら、小出しでアドバイスをしていくカタチに収まります。

 

そして、素直にこちらの話を聴いてくれるかは、普段からの関係性が鍵。

高校生にもなると、進学就職といった大きな選択に迫られます。自分の将来を決める大切な時期だからこそ、担任との相性は良いに越したことはありません。

 

この人なら話せるかも?

 

そう感じてもらうには、子どもたちと同じ目線になることも大切だと思います。

雑談に加わってみたり、一緒に行事の準備をしたり…。そんな時間が、心の壁を取り除くきっかけになるのではないでしょうか。

 

ただし、子どもたちから気さくに声をかけてもらえることを、慕われていると勘違いしてはいけません。それは信頼ではなく、都合のいい人判定を受けている可能性があるからです。

生徒との距離が近くなるほど、生徒の要求は大きくなります。それの全てに応えるのは、得策とは言えません。

 

また、教師と生徒という関係ですが、そこに上下関係はないと思っています。事実、子ども達から教わることもたくさんあります。だからこそ、生徒とは大人同士の関係を築きたいと思うのです。

 

自分は信頼されている、と感じることで生徒の行動にも自信と責任が生まれます。

 

そして、「信じてくれる人がいる」ということが何よりも強い心の支えになるのです。

 

子どもたちの行動を黙って見守るのも楽ではありません。しかし、その眼差しが彼らに「信頼」を感じさせる重要な合図になるはずです。

 

 

「生徒のため=自分のため」

教員不足が問題となっている昨今。

 

その原因はさまざまですが、「長時間労働」が圧倒的な不人気の理由のようです。

 

校種や地域などによって違いはあるでしょうから、あくまで私の考えを残しておきます。教師という職業を考えている方の参考になれば・・・。

 

私は教師になると決めてから、ほかの選択肢には目もくれず突き進みました。

大学では同じ教員志望の仲間たちと、理想の教員像を広げながら

気楽に将来を夢想していました。(私の場合はです)

 

そして、それらがいかに幼稚な考えだったのかを思い知ったのは、

教師として働き始めてからです。

 

授業はもちろんですが、それまでに教材研究を済ませ必要な準備を終わらせなければいけません。

加えて分掌の仕事も。初年度は生徒会の担当になっていたので、執行部の活動をサポートし各行事の運営にも携わります。

部活動も運動部顧問となり(これは希望しました)、週末や長期休暇はほぼ練習か試合。

 

当然ですが、先生は生徒が休みの日でも仕事をしているんですよね。

試験の採点や講習、面談などなど。

先輩方のありがたいご指導もいただきつつ、めまぐるしい日々について行くのがやっとでした。

 

現在は時間の使い方にも慣れ、休みの日まで家に仕事を持ち帰ることはなくなりましたが、時期によっては「私、いつ休みだった?」ということも・・・。

本当は休暇をとらなければいけないのですが、平日はクラスのことも気になるのでなかなかお休みはいただけません。(私の気持ちの問題です)

だから、夏休みや冬休みにくっつけて無理矢理消化しています。

 

ただ、この現状は私が選んで決めて良しとしているものです。

 

ごく自然に平日にお休みされる方もいらっしゃるし、

盛んに活動していない部活動の顧問は、長期休暇も生徒とほぼ変わらないくらい休むことができます。

同じ担任でもクラスによって仕事量は異なります。

教科によっても、分掌によっても。

 

正直、隣の芝が青く見えることはあります。

自分で望んだ日々だけど、この差は大きすぎるのでは?

そう思っても今日まで教師を続けてこれたのは、生徒たちがいたからです。

 

学校にいる間は自分の時間なんてありません。

生徒に良かれと思ってしたことも、そのときに理解されないこともあります。

毎日反省の連続だし、理不尽なお説教が加わることもあります。

帰ったら何もしたくないし、せっかくの休日も洗濯と部屋の掃除で終わることも。

 

そんな毎日でも

彼らが笑顔で学校生活を送ってくれるなら。

彼ら自身が思い描いた未来を歩めるなら。

 

すぐには報われないことも多いですが、生き生きと近況報告をしてくれる卒業生に会うと「この子たちを教えることができて良かった」と心から思います。

 

「生徒のため=自分のため」

 

この方程式を成り立たせることが、教師としての第一歩なのではないでしょうか。